プロフィール

谷 けいじ 経歴紹介

谷 啓嗣(たに けいじ)
1986年2月15日生まれ
寅年 水瓶座 A型

香川県高松市出身
福岡大学スポーツ科学部卒業
株式会社ライフチアーズグループ 代表
パーソナルトレーニングジム レブルス 代表
パーソナルトレーナー

体操三昧の青春時代

1986年2月15日、母の実家である鹿児島県霧島市にて僕は生を受けた。
いつもお風呂の中で父の足の上で必ずウンチを漏らす、とても元気な赤ん坊だった。

生まれた後は、当時両親が住んでいた京都で8歳まで過ごし、その後は父の転勤に合わせて愛媛県伯方島で2年間、そして10歳からは香川県高松市と2度の転校を経験。
転校とは子どもにとってはなかなか残酷なイベントだけど、おかげで誰とでも仲良くなる術を身につける事ができた。

そんな僕が体操に出会い、熱中するようになったのは10歳の時だった。
当時、父が大好きだったジャッキーチェンに僕自信も憧れて、かっこよくバク転がやりたい!と強く思った。
キッカケとしては多くの子どもたちが抱くような憧れの気持ちだったのかもしれない。
しかし僕が体操を通して体験したことは、幸いにも多くの子どもたちとは大きく異なっていた。

当時、香川県は体操の競技成績が全国ワースト3に入るほどの弱小県。
そこでちょうど香川県は体操の競技力向上に力を入れ始めたところで、僕の年代が強化指定に選ばれ、小学生の頃から高校生たちに混じってハイレベルな練習を積むことができた。

そのおかげで全国中学生大会、高校1年からはインターハイや国体に出場することができ、先輩たちが引退してからはキャプテンとして体操部を任されるようになった。
そして弱小県だった香川県も、僕たちの代では全国で決勝進出するほど強くなっていた。

僕の青春時代はまさに体操三昧で、毎日毎日体操の練習に明け暮れた。
(休みの日はマンガとテレビゲームに明け暮れた。)

突然の引退勧告

体には十分気を付けていたが、ガムシャラに練習していたためか、高校2年のインターハイ直後に「腰椎椎間板ヘルニア」を突然発症した。

突然襲ったひどい電撃痛(座骨神経痛)と、体が全く曲がらないという体操選手として致命的な状態。
右のお尻からつま先まで、全く感覚が無い状態がなく、少しでも体を曲げようものなら後ろからバットで思い切り殴られたような激しい座骨神経痛に襲われた。

翌日朝1番で病院に行って検査を行った結果、医師から「大きなヘルニアが2つ出ているので、背中を切り開いて手術する以外に方法はないですね…」と宣告された。

背中を開くような手術をすれば、体操はもう出来なくなってしまう。
手術以外の改善を目指すために、整体、鍼灸、湯治、ブロック注射、怪しい薬・・・あらゆる方法を試した。

両親にも、たくさんお金を使わせてしまった。
…しかし僕の腰の具合は一向に良くなることはなかった。

この時期1番辛かったのが、それまで毎日怒鳴り声と愛の鉄拳で指導してくれていた監督が優しくなった事だった。
何も出来なくなった自分を怒鳴りながら叩きのめしてくれた方がずっと楽なのに…“優しさが辛い”という感覚を、初めて味わった。
腰の痛みと右下半身の感覚麻痺に加え、スポーツ進学した自分に存在価値が無いように感じ、先の見えない不安に押しつぶされそうな日々を送った。

トレーナーを志した原点

突如発生した椎間板ヘルニアが何をしても良くならない先の見えない毎日。
そんな中で出会ったのが、ある“運動療法”だった。
それは偶然母が友人から聞いてきた情報で、これまで様々な治療を試すも改善に至らなかった僕は全く期待していなかった。

でも…もしかしたら…

淡い期待を胸に、ダメもとでそのトレーニングジムに通う事にした。

そして2か月後、奇跡が起こった。

なんと、それまでのヘルニアによる痛みや痺れがウソのように消失し、僕の体はヘルニア発症前と同じくらい、すっかり良くなったのだ。
以前のように体がベッタリ曲がるようになり、足の感覚もすっかり戻ってきたのだった。

この経験から僕は「運動には人を良くも悪くもする力がある」ことを身を以て知った。
そしてこの経験がキッカケとなって、トレーナーになることを決意した。
何よりもその時、ヘルニア改善に全力を注いでくれたトレーナーの姿がカッコ良くて、自分もそうなりたい!と強い憧れを抱いのだった。

体操とゼミと就活1社の大学時代

その決意を胸に、僕は福岡大学スポーツ科学部に進学した。
大学時代の4年間も体操を続け、全日本学生選手権にも出場する事が出来た。

ゼミはスポーツドクター(整形外科医)のゼミに入り、筋電図を用いた実験やフィールドテスト、スポーツ障害などトレーナーになるための基礎を学んだ。

大学の友人たちが何社も就職活動を行う中、僕は4年間でたった1社のみ就職活動を行い続けた。
それは当時、ヘルニアで苦しむ僕を救ってくれた地元香川のジムだった。

そして僕の熱い気持ちが届いたのか、あまりにもしつこかったからか(笑)、僕の4年に渡る就活は実を結び、そのジムへの内定を貰う事が出来た。

こうして僕はトレーナーとしての第一歩を踏み出した。

超ハードな住込みトレーナー研修

大学を卒業した僕は、新人トレーナー研修として半年間、鳥取県にある本部で住込み研修を受ける事になった(香川県のジムはこの本部の支店だった)。

ここではイチロー選手や三浦知良選手をクライアントに持つ、有名オリンピックトレーナーの先生のもとで、午前中は医師・理学療法士の先生の座学、午後は現場研修、帰宅後は毎日レポート作成という、大学4年間の勉強量を遥かに超える濃密な半年間を過ごした

研修は同期のトレーナーが続々脱落して行く中、毎日必死に食らいついた。

半年の研修が終了するとき、残った同期は半分以下だった。
しかしその濃密な研修のおかげで、現場に立つために必要な基礎をしっかりと積む事ができた。

そうして僕は香川に戻り、念願のトレーナーデビューを果たした。
もちろん、かつて自分を救ってくれたジムで。

600名の指導に明け暮れる日々

僕がトレーナーデビューしたそのジムは、一般的なジムとは異なり、
「病院に行ったけど諦めろと言われた。でも、何とかしたい。」という、以前の自分と同じような人や、プロスポーツ選手などのコンディショニング、ダイエット希望者など、様々な目的を持った人が集まっていた。
その年代・業種・目的が違う1人1人に応じて、僕はトレーニング指導に明け暮れた。

しかもそのジムは僕を含めてトレーナーがたった2名
それに対して会員は600名だったため、たくさんの症例を経験するとともに、接客・対人マナーを学ぶことができた。

医者にさじを投げられて先の見えない痛み・苦しみって、先が見えなくて本当に辛い。
そして体が原因で夢や可能性を諦めている人が多い事を改めて知った。

かつての自分がそうであり、それがトレーナーに至る原点であったため、
来る日も来る日も試行錯誤しながらトレーニング指導に没頭した。

トレーニングによって悩みや問題が改善して笑顔を取り戻していく姿は本当に感動的で、その笑顔で「ありがとう!」と言われることがどんどん病みつきになっていった。

こうして僕はトレーナーという仕事に、どんどんのめり込んでいった。

介護・医療のシビアな現場

トレーナーとして3年が過ぎた頃、僕はある出会いから同じ香川県にある「華山ファミリークリニック」に勤務することになった。
そこでは片麻痺の方、酸素吸引をしている方、歩行困難な方など「要介護認定」を受けている高齢者を対象にしたトレーニング指導をおこなった。

つまり、それまで以上に運動によるリスクを伴うシビアな現場を経験することになった。

トレーニング指導以外にも利用者送迎、入浴介助、食事介助など何でもやった。
初めてのことに戸惑うことは多かったが、体が不自由になったとしても、どうすればより良い人生を歩めるかという「ハビリテーション」の考え方と向き合う事ができた。

そして信頼する上司が独立するのに伴い、僕も共に華山ファミリークリニックを退職し、「株式会社メディフィットプラス」の立ち上げに従事した。
ここでは運動特化型デイサービス・フィットネスクラブ・キッズスクールという複合健康施設の立上げから施設責任者を務めた。

これまでのトレーナーの仕事以外にも、近隣のケアマネージャーや小学校への営業活動、介護レセプト業務、フィットネスの啓蒙イベントなど…管理者として数多くの仕事を経験することができた。

自分に芽生えた感情

メディフィットプラスでの日々は充実していて、管理者であった僕には順調な将来が約束されていたのかもしれない。
しかし、僕には常に“自分の人生を自分で歩いていない感覚”が付きまとっていた。

「一体誰のための人生で、誰のレールの上を走っているのだろう?」

振り返ると、親や体操部の監督、職場の上司など「誰かの期待に応えたい」と頑張る自分がいることに気が付いた。
そしてそれから少し、息苦しさを感じるようになった。

それが決定的になったのが、ひすいこたろうさんの著書「明日死ぬかもよ?」を読んだことだった。
東日本大地震が起こった後で「自分もいつ死ぬか分からない」と強く感じた時期だったことも重なり、自分で決めた人生を歩きたい強く意識するようになっていった。

とはいえ、何のアテも情報もなかったので、とりあえずネット上の情報を検索することにした。
「起業」と検索し、いろいろと情報を探していく中で僕が出会ったのが1つの起業をテーマにしたメールマガジンだった。
そして僕はそのメルマガを熱心に購読するようになった。

スイッチが入った瞬間

それから少し経ったある日、そのメルマガの先生が大阪でセミナーを開催する事を知った僕はそのセミナーを受講することにした。
それまでトレーナー関係の講座しか受けた事が無かった僕は、そのセミナーを受けるためにドキドキしながら高速バスに乗り込んだ。

そしてセミナーを受講した僕は、生まれて初めて体験する雷に打たれたような衝撃を受けた。
心の底から「変わりたい!」という衝動に駆られた。

しかしその先生の半年間の本講座の受講費は、僕の給料では到底払う事が出来ない金額だった。

「やっぱり無理だ…諦めよう…」
心の中で呟き、帰ろうとした。

しかしもう一方で
「これで諦めたら、また明日から同じ毎日か…」
と足を止めようとする自分がいた。

そして僕は、本講座を受講する事を決めた。(最大分割回数で)
その時はクレジットカードを渡す手がブルブル震えていた事を今でもよく覚えている。

僕の“起業スイッチ”がパチン!と入った瞬間だった。

そこから半年間は施設管理者として働きながら、高速バスに乗って毎月東京まで講座に通い、起業するために必要な知識を学んだ。

しかし講座を受講し、起業についての一定の知識とワクワク感を得た僕だったが、半年間の講座が終る頃にも何も明確な起業プランを持つ事ができていない状態のままだった。

スーツケース1つで上京!

しかし「環境が全てである」と学んできた僕は、完全に見切り発車だったけどスーツケース1つをもって上京することを決意した。

「お前には無理だよ、上手くいかないよ」
そう言われるのが怖くて、地元の知人や友人には黙って上京することにした。

しかし上京するのはいいものの、僕にとって東京は全く未開の地。

幸いにも大学時代に留学生で仲が良かったマレーシア人の友人のワンルームに居候させてもらえることが決まり、その友人の家に転がり込んだ。

2014年4月18日、東京での生活がスタートした。

しかし「金無し・コネ無し・人脈無し」の状態からのスタート。
何をどうすればいいのか分からなかった。

とりあえず金はなくとも人脈を作ろうと思い、僕はセミナーや交流会に出席しては、そこで出会う人に名刺を配り続けた。
しかしどこの誰だか分からない僕を相手にしてくれる人はほとんどいなかった。

全く上手くいかない日々

お金がなかったので、食事は納豆、卵、豆腐、もやしがこの頃の定番だった。
たまに良い事があった時は近所のスーパーで半額になったお弁当と第3のビールでお祝いした。

「トレーナーとして成功するんだからバイトはしない!」
という一丁前のプライドがあったが、気がつくと
「こっちのバイトの方が時給がいいな…」
とタウンワークを眺める時間が増えていった。

先が見えず不安で仕方がないのと裏腹に、大見得を切って飛び出してきた手前、周りには明るく振るまった。
しかし布団に入ると、明日が分からない孤独と不安で眠れない日々が続いた。

しかしその中でも「自分なら大丈夫」という根拠のない自信が心の底にあり、それだけを支えに貯金を切り崩しながら人と会う事を繰り返し続けていった。

転機が訪れた瞬間

「なんで東京に出てきてしまったんだろう

頭の中で呟いては、それをもみ消す日々がしばらく続いた頃、1つの転機が訪れた。

 人に会うことだけは続けていた中で、ある方のアシスタントに抜擢されたのだった。

 

右も左もわからぬままアシスタント業を懸命にこなして行くにつれ、その周りで1「トレーニングを受けてみたい」と言う方が現れた。

 

上京して初めてのトレーナー業が生まれた瞬間で、心の中でガッツポーズが出た。

 そこからレンタルジムを借りて、その人のダイエットサポートに尽力した。結果はみるみる現れて、それを見た周りの人たちも受けたいと申し出てくれるようになった。

 まさに、歩く広告塔になってくれたのだった。

結果が結果を呼び、半年が経つ頃にはクライアントが予約待ちの状態になった。

朝起きて寝るまでトレーニング指導一色の日々。

肉体的にはきつかったはずだが、それ以上に精神が救われていた。

この時期に母親との電話で「上京して、毎日楽しいよ。ありがとう。」と心から言えたことが、今も胸に残っている。

 

パーソナルジム レブルスをオープン

クライアントが増えるに伴い、201512月に念願だった自分のジムを持つことが出来た。

名前は「パーソナルジム レブルス 」

「レブル=今までの自分からの脱却し、自分に革命を起こす」という意味を込めて、この名前をつけた。

レブルスも口コミで予約が半年待ちの人気ジムになった。 

2016から3年連続で「ベストジムアワード」という賞も受賞することができ、品川エリアで人気のパーソナルジムに成長した。

今ではトレーナーの同志も増え、「体の教習所」として一人一人の目標に合わせたサポートに尽力している。

 

初めての出版、珍エピソード

レブルスでの活動と並行するように、講演の機会もたくさんいただけるようになった。

学校で「体を育てる体の授業」を開催したり

企業の「生産性・安全性を高める健康管理術」を開催したり

一般向けに「100年時代の体づくり戦略」を開催したり。

行政・教育・企業で色々な機会をいただけるようになった。

健康の価値や体との付き合い方を伝えるのが楽しくて、より良く伝わるように海外までプレゼンテーションの勉強に行ったりもした。

 

その中である講座を開催した時に、一番後ろの席で仏頂面で座っている一人の女性がいた。

斜め下から僕のことを見上げるように見られるので

「あぁ、全然面白くないのかな・・・他の人は楽しそうなんだけどな・・・」

と内心ソワソワしながら講演を続けた。

 

そして講演が終わったあと、その女性がツカツカと近づいてきた。

「やばい、、、やられる、、、」

と思った次の瞬間。

「出版社の者です。とても面白い内容でした。出版にご興味ありませんか?」

と言われた。

どうやらその編集者さんは真剣に見るあまり、斜め下から見上げるようになっていたらしい。

このことを後で話したら、とても笑われた。

 そんな珍エピソードから20164月「どんな人でも、ペタッと前屈!(永岡書店)」が誕生した。

本が出たことで、テレビや雑誌にも取り上げてもらえるようになった。

2017年には2冊目の著書「12歳までの最強トレーニング(実業之日本社)」を出版することも出来た。

出版を通して、出会ったことのない方から時々メールで感謝のメッセージが届くようになった。

まだ会ったことのない人が、自分の本を読んでくれて元気になったのだと思うと、嬉しかった。

 

ボディメイクアカデミーを開催

201611月からは、ボディメイクアカデミーを開催することが出来た。

わかりやすく言うと、オンライン上でパーソナルトレーニングが受けられる、画期的なプロジェクトだ。

ボディメイクアカデミーでは体づくりに加えて、栄養・姿勢・歩き方・美肌・ファッションなど、総合的に学べるまさに体の総合アカデミー。

ダイエット・コンディショニング・パフォーマンスアップ・リハビリテーション・・・

人それぞれ目標が違うので、それぞれに合わせて担当パーソナルトレーナーがプランを立てて実行していく仕組みで、多くの方が体が変わり、人生がより良く変わっていった。

おかげさまで予想以上の反響をいただき、これまでで980名の卒業生を送り出すことが出来た。(平均年齢:48.6歳)ボディメイクアカデミーはいつでも募集しているわけではなく、次回の募集は20195月中下旬から。

興味がある方はお楽しみに!

 

ライフタイムフィットネス をオープン

201812月には株式会社チアーズ様とのタイアップ事業として、ライフタイムフィットネスが神奈川県愛甲郡愛川町にオープンした。

コンセプトは名前の通り「健康寿命を10歳伸ばして生涯現役を支えるジム」。

これまでのフィットネス業界の問題を解決した”セミパーソナルジム”だ。

現在はたくさんのメンバーがライフタイムフィットネスを通してダイエットや健康づくりに取り組んでいる。

體育を通して人生を応援するトレーナー

僕の理念は「體育(たいいく)をとおして人生を応援する」である。
(體育:体を鍛えて心を養うこと)

そして日本人の基礎体力を底上げすることをミッションにしている。

 

体は“一生の相棒”であり、命を支える“器”であり、
どこか一部を痛めてしまうだけで、人生の自由度は驚くほど狭くなってしまう。

しかし、僕を含め多くの人は健康な時に健康であることの有り難さを忘れて生きてしまう。

「自分だけは大丈夫だと思っていたのに」
と、取り返しのつかない状態になって涙する人を僕はたくさん見てきた。

「健康が全てでは無いが、健康を失うと全てを失う」
これはその言葉の通りであり、僕自身も噛み締めた言葉である。

だから僕は、1人1人が健康であることの意味に気づき、死ぬまで自分の足で歩き、素敵な景色と出会い、美味しいものを食べる、そんな人生を応援したいと思っている。

そして体調を崩している人とは、それが治癒する感動を共有することができたら嬉しいし、そのためにこれからもこの想いを伝えていきたいと考えている。

 

僕の大好きな言葉

最後に僕の大好きな言葉を紹介します。

“体が変われば人生が変わる”

体が変われば心が変わる。
心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人生が変わる。

これからも體育を通して人生を応援するトレーナーとして、
日本人の基礎体力を底上げする活動を続けて行きます。

最高の人生に最高の相棒(体)を!

最後までお読みくださり、ありがとうございました。
よろしければ感想をお待ちしております。

谷 けいじ

メディア掲載